「バスカヴィル家の犬」読みどころ……筆を大きく使う

ダートムア By Own Herby talk thyme - Own work, CC BY-SA 3.0, Link

「バスカヴィル家の犬」はホームズシリーズの数少ない長編で、短編にはない読みどころがあります。短編ではとにかく話をトントンと進めていかねばならず、文章構成を凝ったりしにくいことが多いのですが、「バスカヴィル家の犬」には、短編では望めない味わいがあちこちにあります。

筆づかひが繁簡よろしきを得

丸谷才一氏は「文章読本 (中公文庫)」のなかで、次のように書いています。

話の運びといふことで、もう一つ、ここでどうしても言つておきたいことがある。それは、筆づかひが繁簡よろしきを得なければならいといふことだ。つまり詳しく書く書き方がつづいたのでは駄目で、筆を惜しんだ書き方が然るべくまじらなければならず、あつさりと書いてばかりゐるのではいけなくて、その合間合間に細密な筆法が必要だといふ心得だが、これは言われなくたつて判つてゐる当り前の話のように見えて、実は意外にむずかしい。われわれの精神は案外、平板な均質さに陥りやすいのである。さらに、一字一字、字を書くことによつて文章を綴つてゆくといふ厄介な作業は、われわれの心をとかくそんな調子にしてしまひがちなのだ。さういふ欠点を矯正するには、優れた小説、殊に長編小説をじつくりと読んで、変化のつけ方を学ぶのが有効である。

この後、大岡昇平「野火」の22章を紹介し、そこで細かい会話が克明に描写され、「が、そのあとにつづくものは、」

それから雨になつた。生物の体温を持った、厚ぼつたい風が一日吹き続けると、雨が木々の梢を鳴らし、道行く兵士の頭に落ちて来た。レイテ島は雨季に入ったのである。

といふ、筆を大きく使ふ叙述であつた。

と、実例をひいてストーリーの緩急のつけ方を解説しています。

ロンドンからデヴォンシャーへ

ここで、「文章読本」の引用をしたのは、「バスカヴィル家の犬」のなかに、上の例とまったく同じような「筆づかひが繁簡よろしきを得」ている場面があり、それを紹介したいからです。

バスカヴィル・モーティマー・ワトソンの三人が、バスカヴィル館に行くことになり、プラットホームで、ホームズはワトソンに細かな指示を与え、ヘンリーに伝説の警告を軽視しないように注意します。この会話のシーンは非常に細かく描写されています。ワトソンは列車の窓から振り返り、プラットホームに立っているホームズが小さくなっていくさまをスローモーションのように描いています。ところが、その直後のパラグラフがこれです。

車中では、同行の二人と話に花が咲き、モーティマー医師のスパニエルとじゃれあって、時間を忘れる楽しい旅だった。気がつくと何時間もたっていて、褐色の大地は赤土に、レンガの街は花崗岩の岩肌になっていた。しっかりした生垣に囲われた牧草地で、赤牛が口をもぐもぐさせている。青々とした草原と、うっそうと繁る樹木は、水分の多い肥沃な土地に来た証拠だ。バスカヴィルは窓の外に目をこらし、典型的なデヴォンの風景に、懐かしい記憶がよみがえったのか、大きなはしゃぎ声をあげた。

ロンドンからデヴォンシャーまでは当時の列車で半日はかかる行程で、短編「ボスコム谷の惨劇」でさえ、途中「広々としたセヴァーン川を越え」という描写を入れているくらいなのに、長編「バスカヴィル家の犬」では、途中の風景は一行の記述もなく、ロンドンのプラットホームからわずか2文目に、もうデヴォンシャーの景色になってしまっています。この瞬時の場面転換はまさに丸谷才一氏の言う「筆を大きく使ふ叙述」で、コナン・ドイルは長編に巧みな作家だということがわかります。

日本の翻訳ではちょっと違う

ところが、ここが瞬時の場面転換と解釈して翻訳している例は少ないようです。ロンドンからデヴォンシャーに行ったこと、その間が短く感じられたこと、だけ表現すれば翻訳には十分なのかもしれませんが、例えば新潮社では次のようになっています。(強調は引用者)

汽車の旅は快適であった。私はこの二人の新しい友人と親密さを加え、モーティマー医師のスパニエル種の愛犬とも仲よしになった。しばらく走るうちに、今まで黒茶色だった窓外の土の色が、しだいに赤みをおびてきて、レンガづくりの家は田舎風の花崗岩の家に変わり、きれいに生垣をめぐらした牧場の中で赤い牛が見送っていたり、青々とした草や生い茂った樹木は、多少湿気は多いにしても、土地が肥沃で気候のいいことを物語っていた。うつり変わる窓外の景色を熱心にながめていたヘンリー卿は、なつかしいふるさのとデヴォンシャーの風景に接すると、狂喜の声をあげるのだった。

風景がだんだん変わってきた、という描写になっていますね。ほかの翻訳もだいたい同じで、表現に違いはあっても、「一瞬の場面転換」は感じられません。原文を見てみましょう。

The journey was a swift and pleasant one, and I spent it in making the more intimate acquaintance of my two companions and in playing with Dr. Mortimer’s spaniel. In a very few hours the brown earth had become ruddy, the brick had changed to granite, and red cows grazed in well-hedged fields where the lush grasses and more luxuriant vegetation spoke of a richer, if a damper, climate. Young Baskerville stared eagerly out of the window and cried aloud with delight as he recognized the familiar features of the Devon scenery.

“In a very few hours”の very は、どういう意味でしょう?小一時間で着く距離ではないので、これは時間が本当に短く感じた、という意味にしかとれません。その間に、”the brown earth had become ruddy, the brick had changed to granite” と、had + p.p. なのですから、それ以前にすでに変化していたわけです。つまり、気づいたときにはとっくに景色が変わっていたことが暗示されています。ワトソンたちは話に興じていて、外を見ていなかった。それで知らぬ間に時間がたち、ふと外を見たときはすでにデヴォンシャーの景色になっていた。という状況だと思います。ワトソンが外を見たので、バスカヴィルもつられて窓から景色を見たのでしょう。それで、なんだ、もうこれはふるさとの景色じゃないか!と喜んで声をあげた、と読むと描写されている状況がわかりやすく、自然に感じるのですが、いかがでしょうか。

現在でもロンドンから電車で西に行くとき、急に緑が濃くなった景色を見て、ああデヴォンに来たんだなあ、と感じる人も多いはずです。油断していると、車窓の風景が知らない間に変わっているのは地理的にも不思議ではありません。

人工から自然へ

このように一瞬の場面転換の場合、前後が対照的な方が劇的な効果が得られるので、作家は当然そこを計算しているはずで、それが、”the brick” が “granite” に変わったという表現だと思います。brick は可算名詞なので、”the brick” は「レンガ全体」を総体してとらえ、対する”granite”は非加算の物質名詞。当時ロンドンは文字通り「レンガの集合体」といえる場所だったはずです。ただ、何百万個集まっても、ひとつひとつの brick は人工のもの。それで構築された全体もあくまで人工物で、それと比較されるのが、花崗岩という境目のない大自然の物質。”すべての“レンガが花崗岩に変わったということは、デヴォンの風景の中にはただひとつのレンガも見えないことが含意されています。たった6語で、人工のロンドンから自然のまっただ中へ飛び込んだ感じが、見事に表現されていると思います。一瞬の場面転換にはやはりこういう引き締まった表現がふさわしいでしょう。

“granite”が具体的に何かですが、確信はありませんが、山肌と理解しています。なぜかというと、直前に褐色の大地が赤く変わったという表現があり、これは水平面の変化ですから、対句にするなら垂直面だろうと考えるからです。デヴォンの風景の中にロンドンのレンガ造りと対比できる垂直面と言えば、山肌ではないかと思うのです。

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