シャーロック・ホームズ VS ドクター・ロイロット

ベーカー街の探偵事務所を訪れた悪党のなかで、最も強力な敵はもちろんモリアーティ教授ですが、その次くらいに位置するのが “The Adventure of the Speckled Band” 「まだらの紐」のドクター・ロイロット。ホームズとロイロットの直接対決は、ホームズシリーズの中でも屈指の名場面です。

ドクター・ロイロット登場

早朝、おびえきってやってきたヘレン・ストーナー嬢が帰ったあと、ホームズとワトソンが事件について語り合っているとき、突然ホームズが大声で、”But what in the name of the devil!” と叫びます。これ自体が非常に珍しい。そして、強敵ドクター・ロイロットがおもむろに登場します。この場面を原文でどうぞ。

The ejaculation had been drawn from my companion by the fact that our door had been suddenly dashed open, and that a huge man had framed himself in the aperture. His costume was a peculiar mixture of the professional and of the agricultural, having a black top-hat, a long frock-coat, and a pair of high gaiters, with a hunting-crop swinging in his hand. So tall was he that his hat actually brushed the cross bar of the doorway, and his breadth seemed to span it across from side to side. A large face, seared with a thousand wrinkles, burned yellow with the sun, and marked with every evil passion, was turned from one to the other of us, while his deep-set, bile-shot eyes, and his high, thin, fleshless nose, gave him somewhat the resemblance to a fierce old bird of prey.

ドクター・ロイロット、超巨漢です。しかも、肩幅も広くがっしりしています。やっぱり悪役はこうでないとね。ジェームズ・ボンドの敵「ジョーズ」を演じたリチャード・キール、そして、ブルース・リーの「死亡遊戯」で対決する、カリーム・アブドゥル=ジャバー、どちらも身長は2m18cm。強敵はこれくらいの迫力がないと倒しがいがありません。

前に、おなじ “The Adventure of the Speckled Band”「まだらの紐」で正確に訳さないとだめな場合があると書いたのですが、この登場場面の描写は、まったく逆で、英語の細かい部分を説明的に日本語に写して、間の抜けた感じになるのは最悪だと思います。それくらいなら、少々不正確だろうが、悪役のオーラがぷんぷんする勢いのある表現がまさると思います。

ホームズが大声をあげたのは、扉がものすごい勢いで裏返り、ドアのあった場所をふさぐように巨大な男が立っていたからだ。知識階級とも労働階級とも、見分けのつかない奇妙な服装で、黒のシルクハットに長いフロックコート、高いゲートルをはき、握った狩猟鞭をブラブラ振っている。戸口の幅いっぱいもありそうな体で部屋に踏み込むとき、あまりの巨体に帽子が桟をこすった。黒く焼け、無数のシワに刻まれた大きな顔が、邪念に満ちて、ホームズと私を見比べるとき、くぼんだ黄色い目と、鋭く高い鼻が、狩りに慣れた凶暴なワシに見えた。

文庫本を見ると、old bird の old を「老いた」と訳していますが、強敵が老いぼれに見えてはマズイと考えて「狩りに慣れた」としています。(説明的な訳はよくないと書いたばかりなんですが。)年齢はそこそこいっていても、鍛冶屋をかつぎ上げられる男ですからね。また、bile-shot eyes を新潮では「腹立たしげな目」、角川では「不機嫌な目」などとしています。妥当な訳でしょうが、目が猛禽類に見えたという文意を考えると、ここは黄疸のような「黄色い」目と読む方がいいと判断しました。また、actually brushed という、帽子がこすれる表現は、そこで部屋の中に入ってきたことを意味していますので、それがわかるようにしています。巨体の悪党がぐっと近寄ってくる表現は文庫本の訳にはないのですが、この頭の動きが、次の A large face と組み合わさると、でかい顔が目前に迫っているような迫力があるので、欠かしたくありません。二人を見比べるときの首の動きが、鳥がクイッ、クイッと首を素早く動かすように見える、そこを猛禽類に例えているのが秀逸な表現です。体はゴリラで頭がワシ、これぞ悪党という登場シーンですね。

ドクター・ロイロット退場

この後の会話も面白いのですが、そこは涙をのんで省略することにして、最後にドクター・ロイロットは、鉄の火かき棒をぐにゃりと曲げ、こう言い捨てて出て行きます。

“See that you keep yourself out of my grip,”
わしの手の届かんところにいろよ

これに対して、ホームズは「じつに、愛想のよい男だな」と皮肉をかましてから、こう言います。

“I am not quite so bulky, but if he had remained I might have shown him that my grip was not much more feeble than his own.”

さすがはホームズ、相手の grip に grip でお返しです。ここの翻訳を各文庫で読むとこうなっています。

「あんなにからだこそ大きくはないが、あわてて帰らないでもうすこしいてくれたら、僕だってけっして彼より弱くはないところを見せてやったのにねえ」 新潮社

「ぼくはあんな大男じゃないが、もうすこしいてくれれば、腕力じゃひけをとらないところを見せてやれたんだがね」 光文社

「ぼくは、それほど大きな体じゃないが、彼がもうすこしいてくれたら、腕力では決してひけをとらないことを見せてやれたんだがね」 早川

「あともうすこしここで辛抱していてくれれば、ぼくも体の大きさでは及ばないまでも、腕力ではたいしてひけをとらないことを証明してやれたんだが」 創元社

「ぼくは、体格はそんなにいいほうとは言えないけれど、彼がもうちょっとここにいてくれたら、ぼくの力もそんなには違わないというところを、見せてやれたのにね」 河出書房

「ぼくはあんなに体格はよくないが、もうちょっとゆっくりしていってくれたら、ぼくだって負けないくらい力があるってことを見せてやれたのに」 角川

ちょっと、ちょっと、ホームズ、押され気味じゃないですか!立派な悪役を登場させるのも大事ですが、主人公が押し負けたら大失敗でしょう。「体では負けている」みたいなことを自分から言うなんてホームズらしくないし「腕力でひけをとらない」というのも、ホームズの嫌いな謙遜です。火かき棒を曲げるのと伸ばすのでは、明らかに伸ばす方がワンランク上なはず。

”I am not quite so bulky” という文の bulky は「大きすぎてかさばる」という意味です。ケンブリッジ英語辞典でひくと、”too big and taking up too much space” と出てきます。人に対して使うとき「がっしりした」という意味は当然ありますが、直前に強烈な皮肉を言ったあとですから、これも当然皮肉で「無駄にでかい」というニュアンスで使われています。日本語でいうなら「僕はあんな、無駄なぜい肉はつけていない」とでも言う感じでしょうか。

そして、腕力の方ですが、”my grip was not much more feeble than his own.” の皮肉を見て下さい。weak じゃなくて、feeble ですよ。力が強い弱いのレベルじゃなく、もうヨボヨボという形容詞です。「あいつのヘナヘナの腕より、チョー劣るってことはない僕の腕」この表現は、当然「負けず劣らず」などと言いたいわけではなく「たいした力もないのに、子供だましの自慢なんかしやがって」というあざけりなのです。相手は、ナリはでかいが、張り子の虎でブヨブヨのヨレヨレ、それに対して、こっちは絞ったボクサー体型の「細マッチョ」で、火かき棒を曲げるような低レベルの技じゃなく、やる気になれば、それ以上のデモンストレーションができるのだ、バカめ!

「僕は無駄にでかい体じゃないが、ちょっと待ってくれれば、あんなヘナヘナの腕より、もう少しまともな僕の腕力を見せてやったのに」彼はこう言いながら、鋼鉄の火かき棒を拾い上げ、一瞬グッと力をこめると、まっすぐに戻した。

やっぱりホームズはこうでないと、読者が納得しませんよ。日本のホームズ、ちょっとおとなしくて、ジジむさくないですか?これは、訳者自身、ホームズの方が腕力にまさると確信していないからだと思います。どこかに「青白いインテリ」のイメージをひきずっているんでしょうか。このころのホームズは、せいぜい30代でしょうから、ロバート・ダウニー・Jr が映画「シャーロック・ホームズ」の主演をしたときの44才より、ずっと若い。プロボクサーに賞賛されるホームズが、20〜30才も年上の素人に力負けなどするわけがないでしょう。いくら強そうでも、しょせんはホームズの強さの引き立て役なんですから。

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