単数と複数の使い分け

英語には単数・複数の区別があり、あるだけならいいのですが、それによって意味が大きく変わる場合があります。日本語でも単複の区別はありますが、その運用ルールは英語の方がはるかに面倒だと感じます。動詞の変化とか、三単現の s とか、思い出しても面倒じゃないですか。もちろん英語がネイティブの人は面倒とも感じないほど自然に使い分けができるはずです。さらには、使い分けを応用して文学的な効果を狙う場合もあります。これをされると平均的な英語力の日本人にとって、文章そのものが謎解きに近くなってしまうことがあります。

「ボスコム谷の謎」の謎

“The Boscombe Valley Mystery” 「ボスコム谷の謎」で、ホームズは犯行現場を調査しますが、調査中にレストレードのところに行って「なんで池に入った?」とききます。レストレードは「手掛かりがあるかとクマデでさらったんですが、なんで池に入ったことがわかったのか」と言いかけますが、それをさえぎってホームズが言うセリフを各文庫から引用すると、以下のようになります。(強調は引用者)

君、君、そんな暇はないんだ。君のその内曲りの左足のあとが、いたるところにのこっているじゃないか。モグラにだってわかる。そいつが、葦のなかに消えていれば……。みんなして水牛の群れみたいにこのへんを捏ねまわさないうちに僕が来ていたら、どんなに造作なかった知れやしない。 新潮社

ふん、そんなことを説明している暇はないよ。内側に傾いたきみの左足の跡が、いたるところにあるじゃないか。これじゃモグラにだってわかる。それがアシの中に消えているんだ。それにしても、野牛みたいな連中が群れをなしてこんなにドタドタ歩き回る前にぼくがここに来ていたら、どんなに楽にやれたことか! 光文社

そんなことを、いちいち説明しているひまはありません。あなたの内側に曲がった左足の跡が、いたるところに残っているじゃありませんか。これじゃモグラにだってわかりますよ。しかも、その足跡は葦のなかへ消えています。ああ、それにしても、みんなが水牛の群れのように泥のなかを歩きまわって手がつけられないほど荒らす前に、私がくることができたら、すべてが、もっと簡単に処理できたと思います。 早川

おい、きみ、きみ、そんなことをいっている暇なんかないよ。きみのその内まがりの左足のあとが、いたるところについているじゃないか。モグラのようなあきめくらだって、これならわかる。そして、これは草のなかへ消えている。おお、みんなして水牛の群れのようにやってきて、この辺の泥のなかをころげまわって、むちゃくちゃにしてくれたな。こうならないうちに、ぼくがきていたら、どんなに簡単だったことだろう。 創元社

ああ、なんとしたことだ。今は説明しているひまはない。あなたの内側に曲がった左足の跡が、そらじゅうにあるではないか。モグラだってわかるでしょう。それが、葦の中に消えているのですからね。バッファローの群れのような連中がやって来て、このへんをうろつきまわる前にわたしがここに来ていたら、事はもっと簡単だった。 河出書房

チッ!チッ!時間がないんですよ。左足が内反足になった警部の足跡がそこらじゅうについているじゃないですか。モグラでもわかる。その足跡がアシのあいだに消えている。ああ、ぼくがもっと早くにきていたら、もっと簡単だったのに。みんなしてバッファローの群れみたいにあたりを歩きまわてくれたな。 角川

原文はこうです。

“Oh, tut, tut! I have no time! That left foot of yours with its inward twist is all over the place. A mole could trace it, and there it vanishes among the reeds. Oh, how simple it would all have been had I been here before they came like a herd of buffalo and wallowed all over it.

面白いのが、訳文で「足跡」となっている部分が、原文では “left foot of yours” 「君の左足」となっている点です。「君の左足」がそこらじゅうにある、ということはもちろん比喩です。ではなぜ footprint を使わなかったのか?使うのなら、足跡はひとつではありえないので、footprints と複数形にしなければなりません。ところが、比喩で “left foot” と足そのものを使っており、左足は一本しかないので、代名詞はすべて it を使い、be動詞も is が使われています。不思議ですよね?そこら中が足跡まみれだという描写をしているのにわざわざ比喩を使ってまで単数形にしているわけですから。

footprint の代わりに foot を使う効果のひとつが、footprintというような生やさしいものではない、より強い痕跡が残っている感じがすることでしょう。それを裏づけるのが、”A mole could trace it.” 「モグラがたどれそうだ」という文です。この文で、足跡の深さは数センチ〜足首ちかくまでありそうなこと、そしてそれが線のようにつながるほど多数つけられていることがイメージできるのです。

it の後の they

さて、次の文に they が出てきます。この they をどう理解するかですが、後に “a herd of buffalo”(バッファローの大群)とあるので「大勢の人間」だろう。誰かは問わない。こう理解したのが文庫本の翻訳だと思います。それもひとつの解釈でしょう。しかし犯行現場は私有地で、農場か屋敷からしか到達できない場所なのです。どこから大勢の野次馬が押し寄せ、目印もない犯行現場を激しく踏み荒せるのでしょうか?

さらに「バッファローの大群がやってきて転げ回った」という表現は、いくらなんでも形容が大げさすぎます。ほんとうにそこまでぐちゃぐちゃなら、シャーロック・ホームズといえども、お手上げのはずです。ところがこの後、ホームズは次々と足跡を識別していきます。つまり現場はそれほどひどく踏み散らかされていないのです。

ここで、もう一度、前文を見直しましょう。footprints の代わりに foot を使い、3回繰り返したit が示しているのは「レストレードの左足」です。その直後に出てくる they となれば、これは「レストレードの両足」ではないでしょうか。片足一本でさえ、モグラが通れる道ができるほど地面をボコボコにしているわけですから、両足でドカドカ踏めば、これはもう小動物ではなく、バッファロー級の出番だ、という理屈です。「お前ひとりで、バッファロー何十頭分踏んでくれたんだ、レストレード」この大げさなイヤミを効果的に言うために、まずは片足一本でさえ、ここまで乱れたという表現を書きたいが、footprints を使うと複数形になってしまい、正確に片足だけの足跡の意味にはならない危険性がある。そこで比喩として foot を使い、すべてを it で表現する、という手間をかけたのではないでしょうか。(ネイティブには手間という感覚はないでしょうが) その証拠に it で “all over the place”、they で “all over it” と、同じ範囲表現を使い回しています。

状況証拠:皮肉の応酬があった

「ボスコム谷の謎」という作品の中で、ホームズとレストレードは常に反目しあっています。レストレードは、”I am ashamed of you, Holmes”「ホームズ、君を軽蔑するよ」と呼び捨てで、非難していますし、その後もずっと火花をちらす皮肉の応酬があります。その流れを考えると「レストレード、お前がここまで現場をめちゃくちゃにしなければ仕事が早かったのにな!」という皮肉も非常に自然に聞こえるのです。

試訳

ああ、シッ、シッ!ただでさえ時間がないのに! 君の内側にねじれた左足だけでも、そこら中が穴だらけだ。 それがモグラの道みたいになって、あそこでアシの中に消えている。 やれやれ、バッファローの大群が押し寄せて来て、このへんを転げまわったみたいだな。だれかさんが踏みつける前に来ていたら、どれだけ手間がはぶけたか。

「バッファローの大群が押し寄せて来て、このへんを転げまわったみたいだ」のところが皮肉だと、日本人読者ならわかると思って書いてみましたが、いかがでしょうか。しかし、外国人の日本語学習者には、この皮肉が通じず「このバッファロー、どこから来たんだろう?きっと大勢の人間が来たというたとえかな」という理解になる可能性もありますよね。悩ましいことに、そう読んでも間違いとは言えないのです。これを裏返したのが原文を読む英語学習者の立場です。「皮肉」は、ネイティブでさえ読み落とす可能性があります。現にこの日本語の文章でも「ふーん。牛が来たのか。そりゃ大変だ」と思う日本人が絶対にいないとは言えないでしょう。誤読を防ぐためには、事実として読んだら変だと感じる程度まで非現実的に書く必要があるのですが、個人的には、”a herd of buffalo” は十分に非現実的だと思います。そもそも、イギリスはバッファローの生息地に含まれませんし、家畜として利用するのは主にアジアです。日本で道がでこぼこになっているところを指さして「イノシシの群れでも通ったのか?」と言えば本気で言ったと思うかもしれませんが「ダチョウの群れでも通ったのか?」と言ったら、おそらくなにかの冗談だと思うでしょう。イギリスに沢山いる、羊・牛・馬の群れではなく、よりによってバッファローを選んだのはなぜか?ホームズファンなら、そこを推理してみたいのではないでしょうか。

こちらの記事も人気です