シャーロック・ホームズに退屈な話?

オレンジの種5つ
オレンジの種5つ

コナン・ドイルは稀代のストーリー・テラーで、読者をぐいぐい引き込んでいくストーリーの展開は実に鮮やかです。

ところが、息詰まるような緊迫した事件説明の最中なのに、いきなり依頼者が「退屈な話ですが、辛抱してください」などと、とぼけたセリフを言う場所があります。

The Five Orange Pips (オレンジの種5つ)の話で、依頼人はホームズに、「アメリカ帰りの叔父がある手紙を受け取ってから、激しく取り乱し、恐怖におののきはじめた」という不気味な出来事を語るのですが、話の最中に突然、妙なことを言います。この部分を手元の文庫本から引用すると、

さて、もうすぐ終わりですから、もうすこしのご辛抱をお願いしますが、 新潮社

さてホームズさん、このへんで話も大詰めですので、もう少しごしんぼうください。 光文社

さて、もうすぐ話は終わりますから、ホームズさん、しばらくご辛抱ください。 早川

ホームズさん、たいくつでお困りになったことと思いますが、この長たらしい話も、おしまいになります。 創元社

ホームズさん、このへんでこの問題を終わりにして、がまんを不要にしていただきましょう。 河出書房

すみません、ホームズさん、いよいよ話も終盤です。もうちょっとだけご辛抱をお願いします。角川

となります。

退屈を我慢してくれ?

ちょっとおかしいとは思いませんか? 怪奇な事件を話している依頼人が、途中で「話が退屈でしょう? もうすぐ終わるので辛抱してください」などと言い出せば、スリルがぶちこわしじゃないでしょうか。名高い作家がそんな初歩的なミスをするとは!しかも、依頼人の話は連続殺人で、上のセリフは最初の殺人事件の直前です。そろそろ終わるどころか、いよいよクライマックスに差しかかる場面なのです。

オリジナルはどうなのか?

そこで、原文を読んでみます。

“Well, to come to an end of the matter, Mr. Holmes, and not to abuse your patience, there came a night …

直訳風に訳せば、こんな感じです。

さあ、ホームズさん、(これまで説明した)事態に終止符を打つために、そしてホームズさんたちに無用の忍耐を強いないために、ある夜がやってきたのです…

「to不定詞」を全部「ために」と訳しているので、日本語としては不自然ですが、原文の意味は明かでしょう。「退屈な話を手早く切り上げる」のではなく、「もし今までが退屈な妄想話に聞こえたとしても、ある夜、事態は大きく展開しはじめる」ということです。依頼人の叔父の恐れがただの妄想だとすれば、その説明は退屈に決まっています。叔父は意味もなく怖がっていただけでした、ではまったくスリラーにならない。依頼人は「もしそう思って聞いていれば、退屈に感じるかもしれませんが、叔父の恐れは決して妄想ではなく、ついにある夜…」と、重要な展開を語ろうとしているところなのです。

やっぱり上手い

こんな引っ張り方をされれば、いったいその夜に何が起きたのかと、ページをめくる手も速くなるでしょう。これぞ、ストーリー・テラーの腕の冴え。ともかく、こんな大事なところで「退屈な話でゴメンナサイ。もうすぐ終わりますから辛抱してください」では、続きを読む気が失せかねません。そんな不用意な作家はまずいないでしょう。

原文を味わってみましょう。to不定詞 が来て、and のあとが、ひねりをきかせて not to 不定詞 という否定形、そして there came a night という倒置、実にテンポがよく、劇的なレトリックです。この文章の後は、when he made one of those drunken sallies from which he never came back. と続きます。それまで長々と説明していた発作的な外出から、ある夜、ついに帰ってこなかった!という語りですから、単にテンポがいいだけではなく、話の筋に飛躍がないですね。読んでいて、リズミカル、内容も明確で、ゾクゾクする、そして次が知りたくなる。書けるものならこんな文章を書いてみたいものです。

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