叙事詩的作品「唇のねじれた男」

シャーロック・ホームズ短編のなかで異色作と呼べるのが、”The Man with the Twisted Lip”「唇のねじれた男」です。

「イン・メディアス・レス」核心から

この作品の特徴は、全体が叙事詩的に描かれているところです。とくに冒頭部の「イン・メディアス・レス」が高らかに歌い上げる調子を持っていて、ほかの作品とは一線を画しています。また、馬車での移動が頻繁に行われること、そしてホームズ自身が馬車を御して旅をするのは、この作品だけです。いったんケントに行って、ロンドンに戻ってくるという行程は、おそらく「オデュッセイア」をなぞっている(あるいはカリカチュアライズしている)のだと思います。しかし、著者もやや無理があると思ったのか、ワトソンに「なぜロンドンで事件を扱わないのか?」と突っ込みを入れさせています。

「唇のねじれた男」冒頭部

それでは、ホームズ・シリーズ最高の冒頭部を味わってみましょう。

Isa Whitney, brother of the late Elias Whitney, D.D., Principal of the Theological College of St. George’s, was much addicted to opium.

「アイザ・ホイットニーはひどい麻薬中毒者だった」というのが、冒頭部の核心ですから、まずそれをいきなりぶつけてきます。しかし、読者にはアイザ・ホイットニーが誰なのかは謎です。Isa Whitney のあとにカンマを打って、「亡きセント・ジョージ神学校長、イライアス・ホイットニーの弟なのだが」と挿入するのですが、この人物も謎。まったく説明になっていません。しかし、元神学校校長を兄弟に持つ人物なら、そこそこ身分の高い人物だろうということはわかります。つまり、アヘン中毒者という説明だけだと、無教養な人物像をイメージされかねないところですが、それを予防する効果があるのです。

The habit grew upon him, as I understand, from some foolish freak when he was at college; for having read De Quincey’s description of his dreams and sensations, he had drenched his tobacco with laudanum in an attempt to produce the same effects.
この悪癖は彼が大学生だったとき、ド・クインシーの幻覚の描写を読み、同じ体験をしてみようと、タバコにアヘンチンキを染ませて吸ったところから、深みにはまっていったと聞いている。

ここから、時間を巻き戻し、未知の人物、アイザ・ホットニーがどのように麻薬を始め、中毒がひどくなっていったかを時系列に記述していきます。大学生だったということから、やはり高い教育を受けた人物だとわかります。

He found, as so many more have done, that the practice is easier to attain than to get rid of, and for many years he continued to be a slave to the drug, an object of mingled horror and pity to his friends and relatives.
彼はほかの中毒者同様、アヘンに手を染めるのはたやすいが、足を洗うのは難しいことを思い知らされた。長い年月、アヘンの魔の手にとらわれている彼を、友人や親戚は、恐れと同時に哀れみの目で見ていた。

どんどん深みにはまり、周囲の人物に迷惑をかけてきていますね。でも、「アイザ・ホイットニー」って誰なんだよ!と読者は、イライラしているはず。

I can see him now, with yellow, pasty face, drooping lids, and pin-point pupils, all huddled in a chair, the wreck and ruin of a noble man.

これが段落の最後の文です。ここで、着地を決めて、ドラマティックな冒頭部が終わるのですが、この部分の訳を文庫の翻訳から引用してみましょう。

いまでは黄いろくぼってりした顔になり、眼瞼は力なく垂れ、瞳孔は針の穴ほどになり、いつも椅子のなかに丸くなっていて、貴族紳士の一廃物としての残骸をとどめているにすぎない。 新潮社

生気のない黄色い顔をして、まぶたは垂れさがり、瞳孔が針の先くらいに小さくなった、あの姿。かつては気高かった男が椅子にうずくまっているみじめな姿が、いまでも思い出される。 光文社

黄色い無気力な顔になり、まぶたはたるみ、瞳孔は針のさきのように細くなって、いつも椅子に背を丸めて沈みこんで、私の目には、身をもちくずした斜陽貴族としか映らなかった。 早川

いまでは、彼は黄色いぶくぶくした顔をして、目のふちがたれ、瞳孔が針のさきのようにほそまり、いつも椅子のなかで背をまるくしてすわっていて、私にはもはや貴族のなれのはてのいける屍としか、感じられないのである。 創元社

今や、彼が、いつでも黄色い無表情な顔つきで、まぶたはたるみ、瞳は針の先のように小さくなり、いすにまるくうずくまって、高貴な面影などひとかけらもない、無残な姿になったのを見ることができる。 河出書房

いまの彼は土気色で生気のない顔や、たるんだまぶた、針先のように縮んだ瞳孔、うずくまるようにしてすわる姿からして、もはやいける屍、貴族のくずとしかいいようがなかった。角川

どの訳を読んでも「アイザ・ホットニー」が何者か、全然わからないままです。このあとは、しばらくワトソンの家庭の話になりますから、「アイザ・ホイットニー」は出てきません。先頭に華々しく登場させた人物の落とし前をつけないまま、別の話に移るなんて、コナン・ドイルは読者のことを考えない作家なのでしょうか?

患者だった

しかし、じつはちゃんと説明があるのです。意訳するとこんな感じです。

今、私の診察室で椅子の奥に丸く縮んでいるものは、青い病的な顔色、力のないまぶた、点になった瞳孔、高貴だった人間の抜け殻だ。

なんだ!アイザ・ホットニーとはワトソン先生の患者のことだったのか!」となって、読者も納得がいくのです。どう翻訳するかは別にして、この点は押さえないと、せっかくのさっそうとした出だしが、着地失敗、大減点になってしまいます。

see は「見る」ではない

文庫本の翻訳が何を見落としたのかというと、”I can see him now”の部分です。中学生でも翻訳できそうですが「私は今彼を見ることができる」では×。まず、知覚動詞の前の can は「…できる」ではなく、「…している」という意味です。次に、seeは「見る」ではなく「診る」、つまり診察するという意味です。動詞の現在形は、日常的に繰り返す動作を意味するので、ワトソンはアイザ・ホットニーを定期的に see しているわけです。この瞬間、巻き戻した過去から、ワトソンがこの文を書いている現在に着地し、時間の旅が終わるのです。

いろいろ気をつかっているようです

おそらくコナン・ドイルは、前5作でワトソンが医師ということは読者も知っているだろうと想定して、アヘン中毒者を see する意味も理解してもらえると判断したのでしょう。それでも念のため、直後にワトソンの妻が「きっと急患よ」と言ったり、「昼間の往診からくたくたになって帰ってきたところだった」というような表現を付け加えて、ワトソンが医者だということをけっこうしつこく記述してあります。これは、この作品から読み始めた読者への気配りなのでしょう。読者に配慮しない作家なんて、失礼な疑問でしたね。すみません。

いきなり、未知の人物「アイザ・ホイットニー」をバンと登場させ、時間をさかのぼって麻薬中毒の進行を順に記述しながら、そして今やワトソン医師の診察を受けている彼はもう、人間とは呼べないほどボロボロなのだった…。劇的で入念、意外性もある、すばらしいオープニングです。しかも、高貴な人物が誘惑によって人間のクズになるというのは「唇のねじれた男」というドラマ全体の要約になっているのですから、見事としか言いようがありません。冒頭部に関しては、これを越えるシャーロック・ホームズ作品はないと思います。

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