注意:薪は暖炉の前に置かないでください

「バスカヴィル家の犬」でヘンリー・バスカヴィルとワトソンが初めてバスカヴィル館を訪れる場面ですが、ここが非常に印象的な描写です。

バスカヴィル館の描写

ヘンリー・バスカヴィルは、ついに先祖代々の館に初めて足を踏み入れます。馬車の音が遠ざかって、バスカヴィルとワトソンは館の中を見回します。「バスカヴィル家の犬」のドラマの始まりですから、まずは室内をじっくり描写したくなるところですが、さすがはコナン・ドイル、不必要に長くはせず、たった4文で簡潔にまとめています。

まず、天井が高く、時代がかって真っ黒になった垂木を描写することで、読者の視線を上に向けます。これで、空間の高さを感じさせ、その次に赤々と燃え上がる暖炉に目を下ろさせます。ヘンリーとワトソンが暖炉に手をかざしたまま、まわりをぐるっと見まわすと、部屋の中央にあるスタンド・ランプにぼんやりと照らされた、ステンドグラスの窓、羽目板、鹿の頭、壁にかけられた数々の紋章、などが目に入る。部屋の描写はたったこれだけです。簡潔ながら視線を上から下、そして周囲をぐるりと巡らせており、そのガランとした広さとともに、初めて知らない部屋に入った人の不安感が伝わる見事な描写です。

暖炉の描写

この描写のなかで、4文中2文を使って描写される「暖炉」を各文庫で読むと、以下のようになっています。

大きい古風な暖炉には、裸火が気持ちよく音をたてて燃えていた。 新潮社

背の高い薪載せ台のむこうのものものしく古めかしい暖炉で、まきに火がパチパチ燃えていた。 光文社

高い鉄の薪台の奥の大きな古風な暖炉には、丸太の火がぱちぱち音をたてて燃えていた。 早川

高い鉄製の薪架(まきうま)の奥の、大きく古風な暖炉を見れば、太い丸太がぱちぱちと心地よげな音をたてて燃えている。 創元社

背の高い鉄製の薪載せ台がある古風で見事な暖炉には薪がぱちぱちとはねている。 河出書房

上の訳文のなかで、新潮社のみ「薪載せ台」の記述がいっさいありませんが、訳し忘れでなく、意図的に省いたのかもしれません。その他の訳を読んで感じるのは、辞書を引き写したような、生彩に欠ける感じがするということです。原文の iron dog を辞書でひけば「薪載せ台」とあるので、それを訳文に入れただけ、という印象です。「薪載せ台」という日本語は薪を置いておく台、つまり未使用の薪の台に読めます。創元社の薪架(まきうま)は、中国語か韓国語のような気がしますが、画像検索すると、薪をストックしている写真が出てきますので、やはりこれも「薪保管台」という意味のようです。燃えていない薪を置く台なら、暖炉の外にあるはずで、手前に「薪載せ台」があり、その奥に暖炉、という配置も自然でしょう。しかし、火の入った暖炉のすぐ前に予備の薪が積んであるような、ずぼらなマナー・ハウスがあるでしょうか?薪はふつう屋外か納屋に置くもので、暖炉の前にそんなものを置けば見苦しいだけでなく、暖かさも半減、最悪の場合、火事になります。けっきょく、余計な描写のない新潮社の訳がもっとも優れていることになります。

原文はこうです。

In the great old-fashioned fireplace behind the high iron dogs a log-fire crackled and snapped.

「巨大な年代物の暖炉の中の iron dogs の後ろ」の意味は、下の写真を見ればわかります。iron dogs は燃える薪を支えるための台です。載せ台がないと、薪の下に火が回らずちゃんと燃えませんので、薪の暖炉にはつきもののアイテムです(例外はあるでしょうが)。河出書房の「薪載せ台がある…暖炉」という表現は「ゴトクのあるガス台」のように冗長にきこえます。なお、iron dogs と複数形なのは、ふつうは2個セットだからです。

火の描写

燃えている暖炉の表現では、 a log-fire の a の語感を大事にしたいところです。これは別に文学的な表現ではありませんが、a によって薪全体に火が回って、勢いよく燃え上がっている感じがするのです。新潮社の「裸火」という表現は、簡潔でいいと思います。原文にない言葉を使うということは、情景を思い描いて日本語にしたという証拠です。

この場面で、暖炉の火に勢いが欲しいのは、底冷えのする館の空気感を伝えるためもありますし、執事のバリモアのもてなし、気の利かせ方を表現するためでもあるのです。館の主人がやってくるのですから、暖炉の火を盛大に焚いておくのは、寒い季節なら当然で、薪をけちったようなシケた火では、悪意があると思われかねません。

この部分は、きりっとした簡潔な描写なのですから、短い文も意図をていねいにくんで訳に反映させたい場面です。

全体の試訳

バスカヴィル館の描写全体を訳してみます。

足を踏み入れたのは、広々とした見事な部屋で、高い天井には、黒くすすけた太いオークの垂木が走っていた。年代物の巨大な暖炉の中では、高い鉄台の上で薪が大きな炎を上げ、乾いた音をたてて、はじけている。ヘンリー・バスカヴィルと私は、長い馬車の移動でかじかんだ手を火にかざした。見まわすと、細長くそびえ立つ古びたステンド・グラス、オークの壁、並ぶシカの頭、四方の壁を埋める紋章、すべてが部屋の中央に置かれたランプの弱々しい光に照らされて、薄暗く陰気だった。

この訳では、原文で「シカの頭」「壁」「紋章」が、全部複数形なのがわかるように工夫してみました。残念ながら、手元の翻訳本ではそれを反映した翻訳にはなっていません。「シカの頭」がひとつか、いっぱいあるかで、かなり不気味さが変わると思いますし、「紋章」が複数の壁にいっぱいあるのは、館の古さを表現するための大事なアイテムです。もちろん、英語の単複をすべて忠実に訳し分ける必要はまったくありませんが、それによって印象が大きく変わる場合はやはり気にすべきでしょう。

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