「恐怖の谷」の冒頭についてのコンテンツが長くなりすぎたので、その続きを書きます。前回のコンテンツを読んでいない方は、先にこちらをどうぞ。
ワトソン、怒りをおさめる
「恐怖の谷」の冒頭で、ホームズはワトソンの考えを横取りして怒らせますが、その直後、ホームズが「ポーロック」という人物からきた手紙の話をすると、怒りを忘れて「ポーラックってだれだ?」と、たずねます。ワトソン、大人ですね。ホームズが「ポーロックはモリアーティ教授の手下だ。モリアーティ教授については話したことがあったかな?」と言うと、ワトソンは次のように言います。
“The famous scientific criminal, as famous among crooks as ーー”
有名な科学的犯罪者、悪党仲間では、ーー と同じくらい有名だ。
これにたいするホームズのリアクションがこれです。
“My blushes, Watson!” Holmes murmured in a deprecating voice.
この部分を各文庫の翻訳で見ると以下のとおりです。
「僕の赤ら顔のごとしかい?」ホームズは苦い顔をしてはきだすようにいった。 新潮社
「ぼくと同じだなんて言わないでくれよ、ワトスン」ホームズは自嘲するような声でつぶやいた。 光文社
「おいおい、ワトスン、赤面させるなよ」ホームズが恐縮げにつぶやく。 創元社
「ぼくが赤面するほどだ、と言いたいのだろう、ワトスン」ホームズは抗議するようにつぶやいた。 河出書房
辞書的に訳されてはいますが、会話がかみあっていない感じがしますよね。
また、予言かい!
冒頭一文の、”I am inclined to think ーー” の ーー をホームズが読んだことを思い出してください。ホームズは、しょうこりもなく、またーーの先読みをしようとしているのです。しかし、こんどは do so のようなあいまいな言葉は使えません。何を読んだか、ある程度は読者にわかるようにしないと、話が前に進みませんからね。しかし、漫画「ジョジョの奇妙な冒険」のように「次にお前は○○と言う」と、直接予言するのは控えて、さりげなく、ぼそっ(murmur)と言うのです。
ホームズは、ワトソンの言葉を「モリアーティ教授は、悪党の間ではミスター・シャーロック・ホームズと同じくらい有名だ」と読みます。しかし、先回りしてつぶやくのが “me” とか、”Mr. Sherlock Holmes” では、ダイレクトすぎて芸がない。しかも、それを聞かれると話をやめられる恐れがある。そこで、”My blushes” と言いますが、これは Spare my blushes!([お世辞/皮肉]はやめてくれ)というイディオムの一部だろうと思います。”Watson!” と ! がついていますが、小さな声でつぶやいているのですから、! が叫びを意味するはずはありません。おそらくこれは命令文の動詞が省略されていることを暗示しているのでしょう。つまり、遠回しながら、ワトソンが as ーー の部分で “as you” か、 “as Mr. Holmes” と言う、と読者にもわかるように予言しているのです。
しかし、ワトソンはこう言います。
ワトソン、一本!
“I was about to say, as he is unknown to the public.”
「今まさに言おうとしていたのは、彼が一般人には知られていないと同じくらい、だ」
つまり、ホームズの予言は外れたのです。そこで、ホームズは
“A touch! A distinct touch!” cried Holmes. “You are developing a certain unexpected vein of pawky humour, Watson, against which I must learn to guard myself.
「タッチ(当たった)!間違いなくタッチ(当たった)!だ」ホームズは叫んだ。「予想外にずるい性格を発揮しはじめたな、ワトソン、これは僕も防御を覚えないと」
この touch はもちろん「ハムレット」で、ハムレットとレアティーズが剣の試合をしたとき、レアティーズが言った有名な言葉です。これまでは、ホームズが一方的にワトソンを刺していたのが、逆にワトソンにチクリと刺し返され、攻撃一本槍ではなく「防御も考えんといかんな」と剣術にたとえて「油断しただけだ」と負け惜しみを言っているわけです。
初期のころのホームズとワトソンは教授と生徒のような役割だったのですが、「恐怖の谷」では、剣術の対戦相手のように、お互いに刺し合うようになっています。シャーロック・ホームズは復活してからキャラが変わったとよく言われますが、まったくそのとおりですね。
試訳
「(モリアーティ教授は)有名な科学的犯罪者だ。彼が、どれほど悪党仲間で有名かと言うと、まるでーー」
「あら恥ずかしいわ、ワトソン」ホームズは、ぼそっと、小バカにするように言った。
「言いかけたのは 『一般人には無名なのと同じほど』 だ」
「技ありだ!してやられたよ!」ホームズは叫んだ。「ワトソン、意外にずるい性格を発揮しはじめたな、君への対抗策も必要になってきたぞ」
ワトソンの返答には、ふたつの可能性があります。ひとつは、ワトソンがホームズのつぶやきを耳にして、瞬時に言うことを変えた、という機転。もうひとつは、いつもどおり自分がホームズをほめるだろうと予想させて、罠をはり、ホームズが予言した瞬間、すかさずカウンターをかます、という作戦です。
ホームズのコメントから考えて、個人的には後者の可能性が高いと思っています。ワトソンが、一文中に、famous という同じ単語を2度繰り返したのに気づいたでしょうか?いかにも、さあここに食いつけ!って感じですよね。言葉による丁々発止の刺し合い、なかなか面白いじゃないですか。はじめに、ワトソンが大人だと書いたのですが、これは私のミスリードです。ワトソンは、じつは冒頭の会話を根に持っていて、仕返ししてやろうと決意していたのです。大人げないですね。