「はたから見」るのはだれ?

A Scandal in Bohemia 「ボヘミアの醜聞」は、シャーロック・ホームズ短編の第一作で、シャーロック・ホームズ・シリーズの記念碑的な作品です。

コナン・ドイルも腕によりをかけて書き始めたのではないかと思うのですが、その書き出しは実に見事で、シャーロック・ホームズ作品の中でも屈指のできばえです。

日本のシャーロック・ホームズ像を決定づけたと言ってもよい、延原謙氏の訳で第一パラグラフを引用してみます。(ルビ省略。強調部は引用者)

シャーロック・ホームズは彼女のことをいつでも「あの女」とだけいう。ほかの名で呼ぶのを、ついぞ聞いたことがない。彼の視野のなかでは、彼女が女性の全体を覆い隠しているから、女と言えば、すぐに彼女を思い出すことにもなるのだ。とはいっても「あの女」すなわちアイリーン・アドラーにたいして彼が恋愛めいた感情をいだいているというのではない。あらゆる情緒、ことに愛情のごときは、冷静で的確、驚くばかり均整のとれた彼の心性と、およそ相容れぬものなのだ。思うに彼は、推理観察をやらせては、世にたぐいなき完全な機械だけれど、こと恋愛となると、まるきり手も足もでない不器用な男だった。やさしい感情上の問題なぞ、口にしたこともない。たまにいうかと思えば、必ずひやかしか罵倒まじりだった。やさしい感情、それははたから見てもまことに結構なもので、とりわけ人の意思や行為を覆う帳を払いのけてくれる効果は大きい。けれども、訓練の行き届いた推理家にとって、細心に整頓されたデリケートな心境のなかに、そうした闖入者を許すのは、まぎれをおこさせるものであり、その精神的成果のうえに、一抹の疑念を投ずることにもなるのである。鋭敏な機械のなかにはいった砂一粒、彼のもつ強力な拡大鏡に生じた一個の亀裂といえども、彼のもつような転成のなかに、激烈な感情の忍びいった場合ほどには、面倒な妨害となることはあるまい。そのホームズにしてなお、忘れがたき女性が一人だけあったのだ。その女性こそは、かのいかがわしき記憶にのこる故アイリーン・アドラーその人である。

この一節は、ホームズは世界一の観察機械で、「愛」とは無縁だったという説明なのですが、初めてこの訳文を読んだとき「はたから見ても」の部分に、強烈な違和感がありました。愛情が「まことに結構な」のは「はたから見」たときではなく、当事者であるときではないでしょうか?他人が愛し合っているのを「はたから見」るのと、自分が相思相愛になるのとを比べれば、どちらが「まことに結構」でしょうか。

パラグラフ全体の流れは、”愛情はみずから体験してこそ素晴らしいのに、ホームズはそれをしようとしない”、という方向で、ほかの文を読めば、ワトソンはむしろ、ホームズは愛情を「はたから見」すぎていると言いたいようです。「はたから見」ることが「まことに結構」というのは、この流れに逆らう文章ではないでしょうか。

ほかの訳も同じ?

ほかの訳文を確認してみます。

ひとの情けは、はたから見てもじつにすばらしいものであり、光文社

やさしい感情は、はたから見ても、それなりに美しいもので、 早川

そうしたものは、かたわらで見ていると、すばらしい見ものであって、 創元社

甘い情熱は、観察者にとっては、なかなか結構なものだった。河出書房

恋愛感情は、はたから観察するぶんにはたいへんけっこうー角川

たいていの本は「はたから見ても結構」という方向で訳されているようです。

オリジナルで確認

原文を見てみます。(強調は引用者)

To Sherlock Holmes she is always the woman. I have seldom heard him mention her under any other name. In his eyes she eclipses and predominates the whole of her sex. It was not that he felt any emotion akin to love for Irene Adler. All emotions, and that one particularly, were abhorrent to his cold, precise but admirably balanced mind. He was, I take it, the most perfect reasoning and observing machine that the world has seen, but as a lover he would have placed himself in a false position. He never spoke of the softer passions, save with a gibe and a sneer. They were admirable things for the observer ー excellent for drawing the veil from men’s motives and actions. But for the trained reasoner to admit such intrusions into his own delicate and finely adjusted temperament was to introduce a distracting factor which might throw a doubt upon all his mental results. Grit in a sensitive instrument, or a crack in one of his own high-power lenses, would not be more disturbing than a strong emotion in a nature such as his. And yet there was but one woman to him, and that woman was the late Irene Adler, of dubious and questionable memory.

「はたから見てもまことに結構」にあたる原文は、 “They were admirable things for the observer ー” でしょう。大辞林で「オブザーバー」をひくと「会議などで、特別に出席することを許された人。発言はできるが、議決権や発議権はない。陪席者。」となっています。こういうところから「陪席者」=「傍観者」=「はたから見る者」と訳されたのかもしれません。

しかし、この解釈は疑問です。すぐ前に、”He was, I take it, the most perfect reasoning and observing machine” という文があります。”Holmes” = “the observing machine” なのですから、”the observer” は、「その観察」ではなく、「その観察」です。つまり「愛」は「観察機=ホームズ」にとって賞賛すべき観察対象だった、というのが原文の意味です。

論理的な構成のバラグラフ

このパラグラフは最初から最後まで明晰すぎるほど明晰に書かれています。なにしろ世界一の観察機械を描写するのですからね。ーーホームズにとって「愛」は顕微鏡の向こうにあるもので、それを観察する際、彼は精密機械のように有能であり、一方「愛」は観察対象として「賞賛に値する」ものだったーー。

しかし「愛」を観察に最適な場所に置くと、どうなるでしょうか?”but as a lover he would have placed himself in a false position. “(しかし、みずから愛する人間として考えれば、彼は自分を間違った位置に置いてしまったのかもしれない) いや、まったくその通り!ちなみに、この部分を「こと恋愛となると、まるきり手も足もでない不器用な男だった。」と訳すと、間違いではなくとも論旨がずれますね。器用・不器用ではなく、対象への位置取りを表現しているのが、a false position なのですから。なお、in a false position を「不本意[迷惑]な立場に」というイディオムと考えることもできますが、個人的にはイディオムを意識しながら、文字通り「間違った場所」と読む方がすっきりすると考えています。”観察機としてのベストポジション”=”愛する人間としては「間違ったポジション」”という理解です。(微妙な違いですが)

そこまで愛とは離れた場所にあるはずの観察機の中に、ただひとり観察対象でない女、いや、むしろ観察を邪魔する女がいた、その女こそ……. これは、読む者の気持ちをぐっとつかむ、最高の出だしですね。

原文を味わう

最初の一文、To Sherlock Holmes she is always the woman. が、たまらないですね。英作文で何度「最初に the を使わないように」と注意されたことでしょう。There was the woman. は駄目!書くなら、There was a woman. The woman … と書きなさいと。この注意に反旗をひるがえす、痛快な(?)文です。

続く文の、eclipse もいいですね。日食や月食のように、手前にかぶってくるということですから、ホームズがレンズで見ようとするとそこに邪魔者がついている、という感じがします。読み過ぎかもしれませんが。

Grit in a sensitive instrument, or a crack in one of his own high-power lenses, would not be more disturbing than a strong emotion in a nature such as his. いやあ、見栄を切った文ですね。雄弁に語りかけてくるようなリズムと口調。念入りで遠回しな表現。繰り返し読んでしまいます。この would は仮定法でしょうから、これは過去のことではなく現在における仮定ということですね。Gritは(集合的)ですから複数形、ところが砂が入る機器は a sensitive instrument と単数、一方、ヒビ割れの方は a crack と単数なのに、レンズは lenses と複数形。さすがはプロ、対句に対しても変化をつけるものですね。もちろん、リズムも計算しているんでしょうけど。

シャーロック・ホームズの短編の始まりは、終わりの方になるほどややマンネリ化するんですが、この冒頭のパラグラフは文句なしに素晴らしいです。

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