日本の「ホームズ」……ていねいすぎる

英語の “Sherlock Holmes” と日本語の「シャーロック・ホームズ」を読み比べて感じるのは、日本のホームズは「ていねいすぎる」ということです。まあ、一人称を「僕」や「ぼく」にした時点である程度はやむをえない点もあるんですが、それでも度が過ぎると思うことがあります。

最低の男、ウィンディバンク

シャーロック・ホームズシリーズに出てくる悪党のなかで、もっとも卑劣な男のひとりが “A Case of Identity” 「花婿の正体」に出てくる、ジェームズ・ウェンディバンクです。彼は当初、犯行を否認していましたが、ホームズに動かぬ証拠を突きつけられ、がっくりとイスに崩れ落ち「だが、告訴はできまい」とつぶやきます。以下は、この後のホームズの言葉です。(強調は引用者)

「残念ながら、たぶんなるまいと思いますよ。しかしウィンディバンクさんこの場かぎりの話ですが、これはながい私の経験にもかつて見ない、残酷な、得手勝手な、無情きわまる詭計でしたな。 新潮社

残念ながらながら、ならないだろう。だが、ここだけの話だがね、ウィンディバンク。くだらんトリックながら、これほど残酷で自分勝手で不人情なものは、ぼくも初めてだ。 光文社

「残念ながら犯罪にはならないでしょう。しかし、ウィンディバンクさんうち明けて申すなら、計画そのものは簡単でも、これほど残酷で、利己的で、血も涙もない策略は、私も経験したことがありません。 早川

「じつに残念だがならないと思う。だが、ウィンディバンクさんここだけの話ですが、かんたんなからくりながら、これほど残酷で手前勝手で無情なものは、ぼくもはじめてですよ。 創元社

「まことに残念ですが、そのようです。しかし、ウィンディバンクさんここだけの話ですが、トリックがつまらないわりには、わたしが今までにお目にかかったことのないほど、残酷で、自分本位で、冷たい事件でしたね。 河出書房

「残念ながら、そのとおりでしょう。しかしここだけの話、ウィンディバンクさん、こんなけちなぺてんで、こんな残酷で自分勝手で薄情なものは、わたしも初めて見ましたよ。 角川

念のために補足しますが、「お前は血も涙もない悪党だ!」と責めている場面ですよ?

オリジナルでは?

原文はこうです。

…. “It—it’s not actionable,” he stammered.
“I am very much afraid that it is not. But between ourselves, Windibank, it was as cruel and selfish and heartless a trick in a petty way as ever came before me. ….

まず、この直前までは、Mr Windibank と呼んでいたホームズが、Windibank と呼び捨てにしています。親しい仲でも Mr を欠かさない時代ですからね。他人を呼び捨てにするというのはよほどのことです。ところが、日本語ではほとんどの訳が「さん」づけです。原文が消したものを、わざわざつけ足すなんて!

もうひとつ、日本の訳では「ここだけの話」となっていますが、これもおかしなセリフです。悪党と内緒話をしようとでも? たしかに、”between ourselves” とあると、反射的に「ここだけの話」としてしまいがちですが(私も最初はそう理解しました)。

一連のやりとりを眺めると、まずウィンディバンクが “It’s not actionable.”(告訴できない)と言い、ホームズは、”I am very much afraid that it is not.“(それがじつに残念だ)と言ったあと、”But between ourselves,” と続いています。ピリオドにはさまれていても、これは not but 構文的に読んでいいでしょう。つまり、”Between ourselves, (it is.)”という意味です。法廷には not actionable だとしても、俺とお前の間では、actionable だ。意訳すると「法律が許しても、このシャーロック・ホームズが許さん」と言っているに等しいわけです。”between ourselves, Windibank” は「ウィンディバンク、サシで話をつけよう」とか、「ウィンディバンク、男と男の話だ」とか、訳してもいいかもしれませんね。いずれにせよ、「ここだけの話だが、こんなひどい事件は初めてだ」ではなく、「こんな前代未聞の事件を誰が許すか」という文意のはずです。

事実、この後ホームズはウィンディバンクをムチで打ちすえようとします。いざとなれば、法を破ることもためらわないアウトロー、それが Sherlock Holmes です。ゲス野郎に、ていねい語を使ったら、イメージ崩れませんかね。

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