ホームズの模範解答、たっぷり楽しみましょう。

現在のチャリング・クロス病院

「バスカヴィル家の犬」の冒頭で、ワトソンに推理をさせ、それを修正する形で、ホームズ教授が模範解答を披露するシーンがあります。ここは、長編で最初の見せ場ですから、読者が「なるほど!」と膝を打ちたくなる、クリーンな推理をするはずです。そこを味わってみましょう。

(なぜホームズが教授なのかは、以下のコンテンツ参照)

ホームズとワトソンの関係

2017.05.25

チャリング・クロス病院からはじめる

ステッキの刻印 C.C.H. を「チャリング・クロス病院」と判断したホームズは、さらにもう一歩推理をすすめ、病院のどういう医者か、範囲を狭めていこうとしますが、その最初がこうです。

“Now, you will observe that he could not have been on the staff of the hospital, since only a man well-established in a London practice could hold such a position, and such a one would not drift into the country.

つまり、推理は次のようになります。

「彼はチャリング・クロス病院の staff ではありえなかった。なぜなら、”well-established in a London practice” していない限り staff にはなれないからだ」

この推理のポイントは、(1) staff とはどんな医者か、(2) staff になれる条件はなにか、の2点です。「さすがは、ホームズ教授!」と、なっているかどうか、文庫本の翻訳から、 “(1) / (2)” という形で引用してみます。(強調は引用者)

(1)幹部 / (2)ロンドンでも指折りの人物 新潮社

(1)常勤医 / (2)ロンドンで開業して実績をつくった医者 光文社

(1)幹部 / (2)ロンドンで名声の確立した医者 早川

(1)幹部級 / (2)ロンドンで名声を博した医者 創元社

(1)勤務医 / (2)ロンドンで開業して、実績を積んだ医者 河出書房

(1) staff とはなにか

もし、staff が「幹部」とすれば、「モーティマー医師は幹部ではない」という推理は、ほぼ無意味です。幹部の数なんて、たかがしれているはず。95パーセント強の確率で当たる推理を、ドヤ顔で(見てませんけど)言われてもねえ。ワトソンに笑われますよ。

では「常勤医」はどうでしょう。後でわかるのですが、モーティマー医師は外科病棟の「住み込み医」です。住み込んでいるなら「常勤」に決まっています。ですから、彼が「常勤医ではない」という推理は大外れです。ホームズ先生!しっかりしてください!

最後に「勤務医」はどうでしょう。病院に勤務している以上、普通は「勤務医」のはずです。推理が足踏みしています。まったく、ホームズ教授はどうしちゃったんでしょうね。

オックスフォードの注を参考に

オックスフォード大学出版のThe Hound of the Baskervilles (Oxford World’s Classics)でカンニングすると、この staff に注があり、「終身雇用の地位を得ている」こととあります。この条件を現在の日本の医師に置き換えて考えれば、staff にあたるのは「正規医師」、サラリーマンで言えば「正社員」が最も近い意味だとわかります。モーティマー医師は「正規医師」ではなかった。これは大きな情報です。

ちなみに、日本の定義で「常勤医」とは「週32時間以上働く医者」、「勤務医」とは「医療施設に被雇用者として医療に従事する医者」のことですから、モーティマー医師はおそらく「常勤医」「勤務医」どちらにも当てはまります。

一方、日本のある公共病院の募集要項によると「正規医師」は「身分は地方公務員、年金は共済年金、賞与あり、退職金あり」、で「非正規医師」は「身分は常勤嘱託(1年更新)、年金は厚生年金、賞与ほぼなし、退職金なし」、です。100年後の日本でも、やはり勤務医は「正規医師」のほうが、だんぜん待遇がいいですね。「正規医師」になれるかどうかで人生設計が変わるのは前世紀のイギリスとそう変わらないようです。

(2)正規医師になれるのは?

次に、チャリング・クロス病院の「正規医師」になれるための条件について考えましょう。

まず「ロンドンで開業して実績をつくった医者」というのは、まったくのナンセンスです。現在の日本でもそうですが「開業医」は医者にとってのゴールではないでしょうか。なにが悲しくて、めでたく開業医になった医者が自分の医院をたたんで、わざわざ勤務医になろうとするでしょうか。実際に、”The Resident Patient” (同居患者) のなかで、腕が良くて開業したいのに資金がないから、やむなく病院に勤めている医者が登場します。臨床医なら、できれば自分の病院を持ちたいと思うのが普通でしょう。

次に「ロンドンで名声を博した医者」というのはどうでしょうか。そんな厳しい基準で大きな病院の「正規医師」の定員が埋められるでしょうか?病院の「正規医師」全員が有名医師だったら、病院も大歓迎でしょうが「正規医師」になれる条件としては厳しすぎます。受勲者の選考じゃないんですから、もう少し間口は広いのではないでしょうか。

要はカネかい!

チャリング・クロス病院の「正規医師」になれる条件は、単純明快で「ロンドンの患者がたくさんついていること」(well-established in a London practice)なのです。再び “The Resident Patient” (同居患者) を見ると、前述の医者が独立する際「病院でいい患者がついて、評判もよかったので、たちまち人気の開業医になった」とあります。つまり、患者は病院ではなく医者を選ぶということです。日本でも似たようなことはあるはずですが、ドライでビジネスライクだと思うのは、患者を呼び込んで病院の経営に貢献する直接の見返りとして「正規医師」の権利が生まれるらしいという点ですね。

そりゃロンドンにいるよね

「ロンドンで多くの患者がついている医師」というのが「正規医師」の条件だからこそ「そんな医者がロンドンを離れるわけがない」という、ホームズの続く推理に説得力があるのです。

ホームズの推理を「教授風」に翻訳すると、こんな感じでしょうか。

まず、彼がチャリング・クロス病院の「正規医師」でなかったのは、あきらかだ。その地位を得るには、ロンドンで患者が大勢ついていなければならない。そんな医者が、都落ちなどするわけがない。

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