翻訳にも色々種類がありますが、文学作品の場合、正確で誤訳が少ないが冗長で退屈な文と、ちょくちょく誤訳があるが文体にリズムがあって読むのが楽しい文の場合、どちらをとるかと言われると、この選択は非常に困ります。程度問題でしょうが、かなりの確率で後者を選びそうな気もしますね。
しかし、誤訳のないのが高品質の絶対条件になる翻訳もあって、なかでも「契約書」はその代表選手ではないでしょうか。とくに、翻訳によって契約条項に本来とは違う解釈が可能になると非常にまずいと思います。やったことがないので、なんとも言えませんが、おそらく何重にもチェックして正確性を担保するのだと思います。
読み間違いはやっぱり怖い
これはもちろん、文学作品だから不正確でいいという話ではありませんが、ミステリー作品の場合、細部を説明的に訳しすぎて、緊迫感がそがれるのもマイナス要素で、本筋と関係ない細部の表現の場合、少々不正確でも、日本語として読みやすいのなら許される場合もあると思います。ところが、上記の「契約書」にあたる部分で大きな勘違いをし、しかもそれがストーリー的にも大問題だったという部分がありました。やはり細かい点を正確に訳さなければ駄目な場合があるのです。念のために、ほかの翻訳を見たところ、手元の本では全部、同じ間違いをしていました。英文を読んでも日本人のつまづくところは一緒なんでしょうかね。
遺言の条項
“The Adventure of the Speckled Band”「まだらの紐」のなかで、ヘレン・ストーナーという若い女性が朝早くにホームズを訪ねてきます。そして、自分の身が危険だと感じて恐ろしい、どのように対処すべきか、と相談をします。その中で自分の家族構成について話をするのですが、彼女と双子の姉が二歳のとき、未亡人だった母がロイロット医師と再婚したと話したあと、母親の財産について以下のように語ります。
これが、原文です。
She had a considerable sum of money — not less than 1000 pounds a year — and this she bequeathed to Dr. Roylott entirely while we resided with him, with a provision that a certain annual sum should be allowed to each of us in the event of our marriage.
各文庫の訳は以下の通りです。(強調は引用者)
母はたいへんお金持で一年に千ポンド以上の収入がございましたが、その財産はそっくり父にゆずってしまいました。もっともそれは私たち姉妹が父といっしょにくらしていますあいだのことで、もし私たちが結婚いたせば毎年一定のお金をくれるという約束になっていました。 新潮社
母はかなりの財産持ちで、年に一千ポンド以上の収入がありましたが、それをそっくりロイロット博士にゆずってしまいました。ただしそれは、わたしたち姉妹が父といっしょに暮らしているあいだの話で、もし結婚したら、毎年一定の額のお金を二人とももらうという条件になっていました。 光文社
母は、かなりの財産家で、年に一千ポンド以上の収入がありましたが、その財産をすっかりロイロット博士にゆずってしまいました。ただし、それは、わたしたち姉妹が父といっしょに暮らすあいだだけのことで、もし結婚した場合には、毎年一定の金額をわたしたちに提供することになっているのです。 早川
母は年収一千ポンドをこえる財産を持っていまして、遺言でそれをすっかり義父にゆずりました。しかしこれはわたしたち姉妹が義父と暮らしているあいだだけのことで、もし結婚した場合には、毎年一定のお金がわたしたちのほうにまわることになっています。 創元社
母にはかなりの財産があり、おそらく年収千ポンドより少ないということは、なかったはずです。これを母は、ロイロット医師に、みな譲ってしまったのです。でも、それは、わたしたちが義父と一緒に暮らしている間だけの話で、わたしたちが結婚するときには、それぞれに、一定の金額が毎年与えられるという約束になっておりました。 河出書房
遺言で母の財産はすべてロイロット博士に譲られましたが、それはわたしたち姉妹が義父といっしょに暮らしているあいだだけのことです。もしわたしたちが結婚したら、毎年一定のお金がわたしたち姉妹それぞれのもとに入ることになっています。 角川
財産分与の法的条件を解釈するという、非常に重要な部分なのでじっくり読んでください。上の翻訳によれば、ロイロット博士が財産を全額手にできるのは、(1)娘と同居し、かつ(2)娘が未婚の場合だと解釈可能だと思いますが、いかがでしょうか?その場合、結婚しなくても別居さえすれば財産分与を要求できるのです。(もちろん現実の裁判なら「いっしょに暮らす」は「同居」でなく「未婚」の慣用表現だ、などと争う余地はあるでしょうが、自由に条件を創作できるフィクションでは、財産分与のように重要な項目が多義的に読める時点で負けです。)
このころのロンドンにも、未婚でひとり暮らしをしている「ぶな屋敷」のバイオレット・ハンターのような女性がいたのです。使用人なしに家事をこなせる娘たちなら、さっさと凶悪な義父と縁を切って、定収入を得て婚活でもした方がよっぽどましでしょう。子供ならいざ知らず、30前後の女性ですからね。成功報酬で弁護士に依頼すれば一件落着。これで、姉妹そろってハッピーエンド。ホームズの計算では、年250ポンドずつ手に入るのですから、月給4ポンドのバイオレット嬢とは比較にならないほど、いい暮らしができたはずです。自立すれば幸せに暮らせたのに、殺人鬼とだらだら同居していたから殺された、というのはミステリーの傑作にしては、かなりまずい状況設定に思えます。
オリジナルの契約条項は
もちろん、コナン・ドイルがそんな失敗をするわけはありません。
母は、年に千ポンド以上の運用益がある巨額の動産を持っていました。まだ義父のお金で生活していたころ、母は自分が亡くなった場合、運用益全額を「ロイロット医師」に譲ると遺言しました。ただし、わたしたち娘が結婚する際には、それぞれに規定の年額を分与するという条項がついていました。
母は、ロンドンに来てまもなく亡くなったので、遺言により運用益は全額、義父のロイロット医師が受け取ることになっています。そして分与の条件は結婚だけです。そう判断できる理由は、resided with him を「同居」と読んだとしても、それは単純過去の「直説法」、つまり事実起きたことなのに対し、結婚の条件は「仮定法」で別の「法」に属しているからです。さらに、”we resided with him” は「彼と同居」ではなく「彼の世話になっていた」、つまり義父の収入で生活していたという意味だと思います。この理解なら「同居」という説明自体が原文の中にないのです。
開業医として順調だったころのロイロット医師は、妻の金に頼らなくても十分妻子を養うことができたのでしょう。それくらい羽振りがよくなければ、財産持ちの妻をめとることはできなかったはずです。また、母が運用益の全額を遺言で譲ることにしたのも、その時点では経済的に面倒をみてもらっていたからだと考えれば、自然ではないでしょうか。それでも、娘の結婚の持参金だけは、なにがあっても確実に残しておいてやりたい、母親としての愛情が付加条項に込められているのです。それなのに、一部の日本語訳では、財産を全部「譲ってしまった」と、娘の将来をまったく考えない馬鹿な母親のせいで、姉妹が苦境に立つ、みたいな描かれ方をしていますが、それでは母親があまりにも気の毒です。ここで、亡き母の代理人として弁護すれば、陪審員のみなさん!被告の母親は娘の将来を、ほかのだれよりも気に掛けていたし、まして財産に無頓着な女性などではありません!遺言の内容が、少なくとも娘が存命中は、ロイロット医師が「原資」を取り崩せないようになっていたことからも、それはあきらかです!母親へのいわれなき非難について、ぜひ名誉回復の評決を!
ところがです。こともあろうに、ロイロットは、母親が娘のためを思って最後までとっておいた大切な持参金にまで手をつけようとしているのです。日本でも酒とバクチに狂って、母が積み立てた娘の学資保険に手を出す、ひとでなしの父親がいますが、ロイロットはそれに輪を掛けた鬼畜野郎なのです。
心理的密室の穴
状況を整理すると、義父は景気のよかった開業医に失敗、母も亡くなり、もはや頼れるのは母の遺産の運用益、年千ポンドのみ。しかしそれを一手に握っているのが凶暴なずるがしこい義父で、財産分与してもらおうとすれば結婚以外に道はない。だが、不便な場所に建つ、崩れかけた屋敷の敷地には、野獣が放し飼いになっていて、使用人さえ近づこうとせず、結婚相手を見つける手段もない。この巧妙に構築された、心理的密室があるとないとではドラマの雰囲気がまったく違ってくるはずです。別居ぐらいで簡単に脱出できるような抜け穴があってはスリラーになりません。穴はすべて、ーーたったひとつを除いてーー、完全にふさいでおかなくては、密室殺人のトリックは成立しないのです。この点だけは水も漏らさぬ翻訳が要求されて、しかるべきでしょう。