「バスカヴィル家の犬」いったい「彼」とは誰?

このコンテンツは「バスカヴィル家の犬」の核心を含むので、未読の方は要注意。

ローラ・ライオンズ完落ち

ローラ・ライオンズ夫人は、ついに自分が騙されていたことを知り、何もかもホームズにぶちまけようと決意します。

彼女は「彼」が、サー・チャールズに面会したいという手紙を書くようにうながしたこと、サー・チャールズに会ったら離婚費用の援助をお願いするように指示されたことを自白します。

「彼」は、その費用でローラ・ライオンズ夫人の離婚が成立したあかつきには、晴れて結婚しようと約束していたのです。ところが、手紙を送ったあとになって、突然、面会に行くなと言いだします。その理由を説明するのが下のセリフですが、「彼」の言うことは、もちろん心にもないウソ八百です。

He told me that it would hurt his self-respect that any other man should find the money for such an object, and that though he was a poor man himself he would devote his last penny to removing the obstacles which divided us.”
彼は私に、こんなお金をほかの男に無心すると、自尊心が傷つくと言いました。そして、自分は貧しいが、二人の間にある障害を取り除くためなら、最後の1ペニーまで使うと。

この言葉に対するホームズの返答を文庫本の翻訳で見てみるとこのようになっています。

たいへん立派な覚悟のようですね。 新潮社

やけに筋を通そうとしているように思えますね。 光文社

まことに一徹な性格らしい言い草ですね。 早川

これはまた、ずいぶんと志操の高い御仁と見える。 創元社

彼のあのぬけ目のない性格がよく現れていますね。 河出書房

ずいぶんさまざまな訳文になっていますが、どれも彼の言動に対する批評ですね。原文はこうです。

He appears to be a very consistent character.
は非常に一貫した人格に見える。

原文には、どこにも「立派」というような単語はありません。「非常に一貫した人格」が、「立派」なのでしょうか。おそらく、そう判断して訳されていると思います。しかし、表現が現在形ですよね?卑劣な犯人の彼が、現在も「立派」「一徹」「筋を通す」「志操の高い」はずはないし、文法的、コンテキスト的に、どう理解すべきでしょうか。

He に himself 、くどいですね

注目したいのは、最初の原文中に、太文字で示したように he, his, himself と he 系の代名詞が合計6個も出てくることです。これは前後の文と見比べてもかなり高い頻度です。つまり he を妙にしつこく繰り返した文の直後を、ホームズが He appears to be … と受けるので、はは〜ん、この He は、前文で表現されている「ニセ人格の彼」のことだなと感じるのです。日本語でたとえると「彼は… 彼は… 彼の… 彼自身が… 彼が… 彼を…」というセリフに対して「(君の言う、その)『彼』(とやらは)…」というニュアンスです。

He が「ニセ人格」であり「ニセ人格が非常に一貫した人格に見える」という意味であれば、次のような別の訳ができます。

彼は、本当に一貫性のある人物を演じているな。

もちろん、この訳文の「彼」は本当の人格のことです。元の英文のように、しつこく繰り返した「ウソ彼」をそのままオウム返しにする、という離れ技ができなければ、こう書かないと日本語では、だれのどんな部分を評価しているのかわからないのではないでしょうか。文庫本の邦訳だとホームズが仮面の人格について批評しているように読めますが、ホームズにとっては、高潔な紳士でも卑劣なチンピラでも、何を演じようと、そこに興味は示さないでしょう。ホームズが感心しているのは、矛盾のない人格を作り上げているという点です。正体がばれた今見ても(現在形)えらくもっともらしい人格をでっちあげたもんだと、ホームズは、なかば冷ややかに、なかば感心しているのだと思います。念のためにつけ加えると、このホームズの言葉は直前にある「1ペニーまで使う」という部分だけに反応したのではなく、それまでのライオンズ夫人の話全体に対するまとめです。

ミスター・ホームズ、美女にも冷静

ここまで大枠を埋めてから、もう一度 He appears to be a very consistent character. を味わってみると、その皮肉な感じ、簡潔な表現の奥深さがたまらないですね。appear to be の語感がグサリときます。ローラ・ライオンズの心を射止めた He、慈善代理人の He、結婚を誓い合った He、お金がなくてもなんとかしてみせると言った He、どこにも矛盾がない He、それが、そっくり丸ごとそれらしくできた人格、すなわち、感心するほど見事な中身のない人格だ、というライオンズ夫人にとって耐えがたい残酷な現実がたった一文に凝縮しているのです。

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