モーティマー先生、何しに船会社へ?

「バスカヴィル家の犬」でホームズとワトソンが置き忘れのステッキについて推理をしていたとき、その持ち主がたずねてきます。そして、ホームズが自分のステッキを手にしているのを見て発した第一声がこれです。(最初を少し省略してあります)

You は何しに船会社へ?

ここに忘れたのか、それとも船会社で忘れたのかと思って、迷っていたところです 新潮社

忘れたのはここだったのか船会社だったのか、わからなくて。 光文社

こちらへおき忘れたのか、それとも回漕店ににおき忘れたのか、はっきり憶えていなかったんです。 早川

忘れていったのは、ここだったか船会社だったか、迷っていたのでした。 創元社

ここに忘れたのか、それとも船会社に忘れてきたのかはっきりしなかったものでして。 河出書房

この場面は、ホームズが珍しく早く朝食の場にいたということから、早朝のはずです。また、後でわかるのですが、ステッキの持ち主モーティマー医師は、24時間以内に解決しないといけないという急ぎの用で、デヴォンシャーからロンドンにまで遠出をしてきているのです。一刻を争うはずのモーティマー医師が「船会社」へ何の用で行ったのか、そこが謎です。

まず、日本人が「船会社に行った」と言われれば、どんな用事だと思うでしょうか?おそらく「荷物の受け渡し」をイメージするのではないでしょうか。早川の翻訳が「回漕店」(船による物流会社)となっているのも、同じイメージからでしょう。

しかし、短い滞在期間に、船便の荷物の受け渡しをするというのは不自然です。ロンドンに来たから、ショッピングに行くとか、大英博物館に行くとかならわかりますが、「船会社」にはストーリー上の必然性がなさそうです。

the Shipping Officeってどんなとこ?

そこで原文を見てみます。

I was not sure whether I had left it here or in the Shipping Office.

モーティマー医師が行ったのは、the Shipping Office だということがわかります。

では、the Shipping Officeとはどんなところか?まず、the という定冠詞がついて、Shipping Office と一般名詞が大文字になっている点に注目すると、the White House(ホワイトハウス)のように、なんとなく公共っぽい雰囲気です。

じつは、the Shipping Officeは、シャーロックホームズの別の2事件でも出てくるのですが、どちらも the shipping office(小文字)で、ホームズは「船員」の調査をします。そこから考えると、the Shipping Office は、船員登録名簿の作成をしていたらしい。

しかし、モーティマー医師は船員ではありません。ますます、何しに行ったのか、という話になるのですが、ヴィクトリア朝時代の文書を読んでいると、the Shipping Office で、「パスポートがないと切符を売れない」という会話があったり、the Shipping Office の窓から、船の乗り継ぎの間、港を眺めていたというような記事があります。つまり、乗船者名簿を作成したり、入出国管理をしたり、乗船切符を売る業務も行っていたようです。(もちろん、内部組織は細分化されていたのかもしれませんが、利用者にとっては無関係です。)

the Shipping Office という組織の全体像はさておき、ここまでで作品の理解には十分です。当時の読者が、モーティマー医師が the Shipping Office に行った目的として想像したのは「乗船切符を買うため」だと思います。そこには待合室もある。現在の日本で言えば、「フェリー乗り場」がそれに近い場所ではないでしょうか。

フェリー乗り場ならどうなのか

「フェリー乗り場」のような場所なら、どうなるか。まず第1に、急用のモーティマー医師が別の場所に「寄り道」をするという不自然さが解消されます。第2に、いかにも忘れ物をしそうな場所です。第3に、ステッキを「船会社」のオフィスではなく、「フェリー乗り場」で忘れたら、見つかる可能性はまずないでしょう。だから、ホームズが自分のステッキを手にしているのを見て、大喜びするのも自然なのです。「ここか船会社」ではなく、「ここになかったら見つからない」という状況なのですから。第4に、切符を買うとすれば乗船時でしょうから、the Shipping Office のある場所は、ロンドンではなくプリマスあたりの可能性が高くなりますが、プリマスで忘れたかロンドンで忘れたかも憶えていないとすれば、とんでもなく不注意な人間になります(ギャグ的です)。しかし、モーティマー医師がうっかり者だということは、ホームズが事前に推理しています。

そして、最後の第5のポイントですが「フェリー乗り場」に行ったということは、モーティマー医師は、馬車や鉄道ではなく、船でロンドンに来た、すなわちかなり遠くに住んでいることがわかります。結局、この最初の一言で、ホームズとワトソンの「田舎の開業医」という推理が的中していたことが暗示されています。

つまり、スパニエルが戸口にいる場面から、この第一声まで、ホームズの推理はひとつ残らず的中しているらしいことが読者に、ほのめかされているのです。ところが、そう思わせておいて、直後の質問でいったん大きく外れたかのように見せる。じつに手の込んだ描写ではないでしょうか。

そもそも、依頼人をむかえるとき「あの足音は正か邪か、さあ運命の一瞬だぞ」とか、えらく劇的な人物が入って来そうだと期待させておいて、「あらあら、よかったー。ステッキここかー。成田空港でなくしたか、ヒースロー空港でなくしたか、わからなくてさー」みたいな、間の抜けた人物がやってくるんですからね。この場面は邪悪な伝説直前のコミックリリーフなんでしょう。こういうところが本当にウマイですね。

こちらの記事も人気です