シャーロックホームズの皮肉

短編傑作 “The Red-Headed League”「赤毛組合」の冒頭を紹介します。

ワトソンがホームズの家を訪ねたとき、部屋の中に依頼人がいたので、帰ろうとするとホームズが引っ張り込んで扉を閉める。ワトソン「仕事中だろう?」、ホームズ「そうだ。その通り」、ワトソン「じゃ、隣の部屋で待つよ」その次のホームズの一言がこれです。

Not at all.

この部分を手元の文庫本で見ると、このようになっていました。

そんな必要はないよ。 新潮社

その必要はないよ。 光文社

いや、いいんだ。 早川

それにはおよばないさ。 創元社

その必要はないよ。 河出書房

いいんだよ。 角川

いくらなんでも、”Not at all.” の翻訳を見比べる必要はないとあきれられるかもしれませんが、どんな単純な英語も、結局は文脈に依存するのです。日本語の「そうですか」という言葉でも、「そのカメラは壊れているよ」「そうですか」なら、単純に納得している感じですが、「ベンツ以外の車は車じゃないね!」「そうですか」なら、逆に納得していない雰囲気がありますよね?「ゴールデンウィークは海外旅行だよ」「そうですか(勝手に行ってろ)」、「明日はまた35度以上になるらしいね」「そうですか(うんざり)」、「トランプが大統領になったよ」「そうですか(驚き)」、文脈次第で同じ言葉がさまざまなニュアンスを帯びます。日本語を学習しているイギリス人が、ここにあげた「そうですか」のテイストの違いを理解するのがどれほど大変かを想像すれば、ひるがえって、英語表現の理解も一筋縄でいかないことを思い知らされるはずです。

目には目、英語には英語

“Not at all.” は、”Thank you.” とかの返事の場合「いいえ、どういたしまして」の意味だと、辞書に独立して記載があるほど、よく使われます。しかし、問いかけが 「お疲れですか?」 なら「いいえ、どういたしまして」はおかしく、「全然大丈夫」のように理解しなければなりません。これは、別に難しくはないでしょう。では、ワトソンが「隣の部屋で待つよ」と言ったのに対しては、どう理解すべきか?質問を日本語として考えれば、”Not at all.” は、「待つ」を強く否定して「全然待たなくてもいい」という意味だと思いますよね。そこに、英和辞典に出てくるほどひんぱんに使われる「いいえ、どういたしまして」という日本語のていねいな応答の印象が加わって、上記の文庫本のように「そんな必要はない」「いや、いいよ」という、やわらかい訳語が生まれるのでしょう。ところが、ワトソンが「隣の部屋で待つよ」と言った英語はこれなのです。

“Then I can wait in the next room.”

この文に “Not at all.” を組み合わせれば、”You can not wait in the next room at all.”(君は絶対に隣の部屋で待つことなどできない) となります。つまり、この会話は「じゃあ、あっちの部屋で待っていようかな」「フフッ。話を聞きたくてウズウズしているくせに、できっこないだろう」という、ホームズの軽い皮肉が、たった3語に込められているのが、読みどころなわけです。ワトソンにしたところで、本気で隣の部屋にこもる気はさらさらなく、なかば期待して will ではなく can を使ったのでしょう。そこをホームズに見透かされたかっこうです。この挨拶の直後、ホームズはさらにチクチクとワトソンが自分の事件に興味津々なのをイジりはじめますが、この “Not at all.” はその小手調べ、軽いジャブなのです。

そもそも、ホームズの第一声、

“You could not possibly have come at a better time, my dear Watson,”
こんな見事なタイミングでよく来たな、マイ・ディア・ワトソン

から皮肉が始まっています。 「こういう面白い事件のときにかぎって、ひょこっと顔を出しやがって」という言外のニュアンスがあります。皮肉を込めた文の後にある “my dear Watson” は「さすがは、ワトソンせんせーだ」というような、からかいを含んだ呼びかけになります。この、my dear Watson も色々なニュアンスに変化しますが、それも文脈で決まるのです。もちろん、ホームズはワトソンの来訪を歓迎しているのですが、言葉には冷やかしがある。それは親しさの裏返しなのです。

苦労の甲斐はある(はず)

この作品で、冒頭の会話は、ホームズの軽い毒舌とワトソンの間で繰り広げられる、親しみを込めた言葉の掛け合い、けなし合いを楽しまなければ、面白さ半減です。ところが、翻訳ではなかなか細部まで味わうのは難しく、英語で読んだからといって、必ず攻略できるというわけでもありません。言葉の微妙な味わいをひとつ理解できたとき、そこで「英語を読んだ」という手応え、いや、推理の謎を解いたような喜びがあります。これは、苦労して原作を読む果実でもあるのです。

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