震える指で器用に巻く?

「バスカヴィル家の犬」のモーティマー医師は自分で紙煙草を巻く人物で、ものすごく器用に1本の煙草を巻き上げます。そのようすをさらに詳しく説明したのが次の文です。

細くて長いその指はたえずうち震え、まるで昆虫の触角のように敏感で、少しもじっとしていなかった。 新潮社

機敏によく動く、長くてかすかに震える指が昆虫の触角じみている。 光文社

その細長い震える指さきは、昆虫の触角のように敏感で、せわしなく動いた。 早川

彼の長いふるえる指は、昆虫の触角のように敏感で、すこしもじっとしていなかった。 創元社

かすかに震えている長い指は、まさに昆虫の触角のように活発に動き続けた。 河出書房

そんなバカな!薄い紙の上に軽いタバコが乗っているのだから、指に震えがあれば、こぼれ落ちて巻けないはず。まして器用に巻くなど論外です。そもそも、指が震えるって、モーティマー医師は若いのにアルコール依存症なんでしょうか?それでは開業医は無理でしょう。

原文はこうです。

He had long, quivering fingers as agile and restless as the antennae of an insect.

この “He had long, quivering fingers”を「彼は長い震える指を持っていた」という日本語に変えると、その時点でコンテキストと矛盾します。”He had a beautiful voice.”(彼は美声だった)という文の場合「彼はいつも歌っていた」というような意味はなく「いい声」という能力をもっていただけです。同様に、”He had quivering fingers”も「震えるような速さで指を動かす能力があったが、常に震えていたわけではない」と理解すべきでしょう。そうすれば例えば次のような訳文になります。

彼は細長い指をまるで昆虫の触角のように、小刻みにすばやく動かすことができたのだ。

日本でも、シューティングゲーム名人の指の動きを「けいれん」と呼んだりしますが、原文の quivering はこれと同じで、目にもとまらぬ速さで四本の指をぶるぶるっと動かすとあっという間に一本の煙草を巻くことができる名人技、という説明でしょう。

なお、文庫の訳で、「少しもじっとしていない」「動き続けた」という表現がありますが、これも誤解しやすい表現です。おそらく restless を翻訳したものと思いますが、agile and restless は、両方合わせて「素早い正確な動き」という表現でしょう。restless は「止まっている瞬間がない」という意味で、「いつも動いている」というのとは違うと思います。

のめりこむタイプの人物

物語的には、この場面はモーティマー医師が「凝り性」だということを描写しているのだと思います。そもそも、器具を使わず手だけでタバコを巻くのはかなり難しい技です。相当訓練しないと、瞬時に一本巻くなどという芸当はできません。明けても暮れても練習した結果、まるで「けいれん」か!というような器用さを身につけたのでしょう。老人のような「震える指」なんて、先生が聞いたら怒りますよ…。

quiver はどういう震えに使うか

日本語の「震える」に対応する英語は、shake, tremble, shiver, shudder など多数ありますが、それぞれ、震える主体、震えの原因、継続時間、震えの強さ、などで微妙に意味が違います。quiver については人が震える場合は、おもに感情が高ぶったときの震えとしてよく使われます。そして、震える場所はのことが多いようです。全身が怒りでワナワナと震える、というのは比喩的表現は別として、現実には考えにくいですからね。もちろん例外はあるでしょう。OEDを見ると、”This‥made his lips quiver and his hands tremble.”という文例がありました。また、パーキンソン病で手先が震える症状は tremor ですから、指が震える表現として quiver は、一般的ではないようです。

興味深いことに、quiver には他動詞の用法もあるのです。quiver を他動詞と見なせば、quivering fingers の意味は「震える指」ではなく「何かを震わせる指」という意味になります。(boring people が「退屈している人」でなく「他人を退屈させる人」になるのと同じです) しかも quiver の他動詞用法は、研究社 新英和中辞典 によると「〈動物が〉〈羽・触角などを〉(小刻みに)震えさせる,振動させる」とあり、これは、まさに「昆虫の触角のように器用に休みなく」という表現に合致しています。quivering fingers は「震える指」ではなく「(煙草を)震わす指」と読むべきなんでしょうか。しかし指自身を動かさず、持った煙草をブルブル震わすとなると、もはやマジシャンの指です。quiver を他動詞と理解すると、ますます「目にもとまらぬ速さ」の印象が強くなりますね。

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