犬に嗅がせるものとは
「バスカヴィル家の犬」前半の山場はなんと言っても、ヒューゴー・バスカヴィルの伝説部分でしょう。ヒューゴーが誘拐して監禁していた娘は命がけで逃亡、それに気付いたヒューゴーは「悪魔に魂をくれてやる!」と呪いの言葉を吐いて、娘の奪還を誓う。ここがひとつのクライマックスだと思いますが、跡を追うために犬にあるものを嗅がせます。これを文庫から引用すると、次のようになります。
娘が残したハンカチを犬どもに嗅がせ 新潮社
娘のハンカチのにおいを犬どもにかがせ、 光文社
犬どもに娘のハンカチを嗅がせ 早川
犬に乙女のハンカチをかがせ 創元社
猟犬に娘のハンカチをかがせるや、 河出書房
何度も読み返しているうちに、だんだん違和感が増してきました。まてよ?「ハンカチ」?
恋愛関係?
シェイクスピアの「オセロ」でオセロがデズデモーナに贈った「ハンカチ」が悲劇を招くように「ハンカチ」にはどうも恋愛がらみの感じがするのです。現在でも胸ポケットに入れて見せびらかし、女性が涙を流したとき、さっとハンカチを差し出すのは紳士の役目。古典的すぎますが。好みの男性の気をひくために、ハンカチを拾わせる、これも最近は聞かないですかね。
それはともかく、伝説の時代(17世紀?)、女性のドレスにハンカチを入れるポケットがあったのでしょうか? しかも、ヒューゴーがどうやって娘のハンカチを手に入れたのか、その状況が思い浮かびません。そこで、原文を見ると…
giving the hounds a kerchief of the maid’s
「ハンカチ」ではなく「カーチフ」だったのです。引用した翻訳が全部「ハンカチ」なのですから、英語で読んだところで、kerchiefは「ハンカチ」みたいなもんだろう、と多くの日本人が思うのではないでしょうか。
ところが「カーチフ」は「ハンカチ」ではなく「頭巾」なのです。
頭巾なら場面にぴったり
これなら、違和感がありません。逃げるときに落としていきそうなものですし、普段身につけている衣類なので、犬に嗅がせるアイテムとしてもぴったりです。
しかしそれ以上に、カーチフがないということは、逃げている女性が無帽だということを暗示しているのです。つまり女性は「髪を振り乱して」逃げているわけです。ルノワールが「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」で屋外にいる無帽の女性を描いたとき、ふしだらだと非難されたという話があるように、まっとうな人間は帽子をかぶるのが常識だった時代です。髪がむきだしの女性というのは、ヴィクトリア朝時代ではかなり刺激の強い性的くすぐりだったはずです。魂を悪魔に売り渡そうとする凶悪な男、ヒューゴー・バスカヴィルが、女性の髪の匂いが残るカーチフを獰猛な猟犬の鼻にあてがう… いやー、ホラーですね。これが「ハンカチ」だと、恐怖三割減というところでしょうか。